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恋愛って一体なんでしょうか? [出合い系]

恋愛って一体なんでしょうか?
恋愛については色々な恋愛論なるものがあり、理屈をこねて説明しておりますが。
しかし、本来、恋愛とは難しい物ではなく、人の感情その物であり、素直な気持ちとでも言えます。
従って、恋愛とは、お互いがお互いを愛おしいと思う心を持っ事、だと思います。
だから、相手の為に犠牲を払ってでも尽くしたくなり、相手の事だけを考えるようになります。
そして、相手を思えば思うほどに辛く苦しくもなります。
この辛く苦しみが多いほど恋愛度が高いのだと思い、大いに苦しむ事も若い時の経験で、将来大いに役立ちます。
激しく辛く苦しむと、喧嘩をする暇もなくなり、何十年でもラブラブのまま、うふふ!
ブサイク&デブの語る恋愛論にこそ、真実が含まれていますか?
一概にそうだとは言い切れませんが、恋愛をして幸せそうな方(独り善がりを除く)なら真実をご存知なのではないでしょうか。
ブサイク&巨デブというハンデ(自分にとって)を乗り越えて、愛を掴まれているんですからね。
美人だと顔が目当てと言うことがあります。
でも外見で選ばれる可能性が低い人たちは、内面を磨くなどの努力をします。
(努力をしないで妬んでばかりいる人は、真実を知らないと思います。)
内面を見てもらえて幸せな恋愛をしている人なら、外見はそれほど関係ないという事を知っています。
だからある意味、美人な人よりも惑わされるものがない分、真実を掴むのも幸せになるのも近道かもしれませんね。
「私が結晶作用と呼ぶのは、われわれの遭遇するあらゆることから発して、愛する者が新しい美点を持つことを発見する精神作用である」
これって、あばたもエクボってことですか?
好きになってしまったら、実物以上に魅力的にみえるってことですか?
恋愛初期における盲目的な「あばたもエクボに見えてしまう」ではなく、信頼関係を築き愛が深まることにより「あばたをあばたのままで美しいと思える境地」を表わしていると思いました。
エクボがあばたであったことに気づき愛が崩壊していくのではなく、あばたに気づけば気づくほどに愛が深まり結晶化していくような夫婦関係を築いていきたいものです。

恋愛の大ピンチ?です。 [英語独学]

恋愛の大ピンチ?です。
俺の家庭は母父姉俺と四人で家族構成ができている。だが、父母は海外で働いているため家に帰ってこない。ただライフラインを仕送りという形で供給するだけ・・。姉は最近まで他県の大学に行くためしばらくいなかったのだが、卒業し弟が心配なのでと戻ってきた。なので、今年から夢のような一人暮らしが終わるわけだ。それは自分にとって非ジョーに悲しく苦しくやるせないことで愚痴りたい気持ちはこの上ないほど心一杯あるのだが、今回の問題点はそこではないんですよ
ある日姉という存在が新たに加えられた我が家に帰宅した僕は惨劇と化したリビングを見た!!
恐らく昼ごろ食べただろうと思われる食いかけのお好み焼き、脱ぎ捨てられた下着、泥酔した姉から発せられる酒臭。
「ま、魔窟・・・」
そう言ったあとこの姉が散らかした下着を片づけることにした。
黒のイヤラシイ魅惑のぶらじゃ~というものを手にしながら姉に声をかけ、起こし、自分の部屋へと戻した。
「だから一人暮らしのほうが楽だったんだ・・」
片手にぶらじゃ~なるものを持ちながら一人溜息をついていたら、ガサッ
何かが落ちる音がしたので後ろを向く。・・・そこには(ここからが本題です)
「何やってんのK」(自分の名前をKと置きます)
「いや、片づけだけど?」
「そうじゃなくてどうして女物ぶらじゃ~を持ってるの?」(男物のぶらじゃ~はあるのだろうか?)
「ああ、コレ。そういえば、まだ話してなかったな。実は姉さんが帰ってきたんだ。」
「お姉さん?」
「そう姉さん」
「ウソつかないで」
ハッ!殺気?気がついたら、俺の襟を幼馴染のM(幼馴染の女をMと置く)がつかんでいて、
「Kのお姉さんは他県の大学に勉強しに行ったんじゃない。まだ帰ってきてるわけない」
「いや、だからそれから帰って・・」
「もういい!!」
Mは回れ右をし玄関から勢いよく飛び出し帰宅。
次の日からというもの声をかけても無視されまくりです。時々目が合うもののすぐにそっぽを向かれ、そのことを友達に相談すると皆
「ったく、お前はバカだけど少しぐらい考えたら自分がバカなことしたって気づくだろこのバカ」
「あっ今無駄にバカって三回言ったな。この野郎」などという会話で終わります。


事情を抱えた恋って、道から外れていますか? [英語独学]

こういう事情を抱えた恋って、道から外れていますか?
不倫というのは、既婚者を相手に恋をすることだと思います。
ただ、その人が結婚はしていても、奥様がいない場合、それでも不倫になるのでしょうか?
奥様がいないというのは、行方不明になっているということです。
事件性もなく、ご自身で選択した失踪のようです。ただ、お子さんがおり、
失踪して2年程度ということもあり、離婚の手続きは取っていないとのことです。
奥様は、生まれたばかりのお子さんを置いて出て行かれているので、
相当な覚悟があったんじゃないかと思います。おそらく戻ってくることはないんじゃないかな…
彼自身は、奥様がいなくなった後にも、別の方と違う恋を何度か経験しています。
彼自身も、「これは不倫じゃない」とは言ってくれますが、当人だからそんなことが言えるんじゃないかとも思ってしまって不安です。
失踪して二年では離婚は出来ないと思いますよね。
別に道に外れている、と言う考え方は、何処から出来上がっているのかが興味を引きますが、特に女性の失踪は、覚悟の上の場合が、男に比べて多いかもしれませんよね。
失踪願いが出されていれば、あなた達のp故意の進展は、いい感じで進むと思いますが男性の側が、何かひっかかりが有れば、それが問題でしょうね。
不倫にはならないようですが、それでも穏やかな状態ではないですよね。1度ゆっくり、このことについて話せたらいいなと思います。

恋愛観や感情論で愛は語れないか? [出合い系]

恋愛観や感情論で愛は語れないか?

漠然としていて様々な解釈ができそうですが、問いたいのは、自分が他人を愛するという心情に確信や誇りを持つためには、今現在自分が持っている恋愛観念や感情を持ち出すだけでこと足りるのか、一般的にそうしたもので認められるのか、ということになるのでしょうか。
可能不可能の二元論でいけば、それはもちろん不可能ということはできないと思います。しかし、あなたが問いたいほんとうの事は、そんなことではないのでしょうね。
愛というのは自己愛にはじまりその対象となるものが一様ではないので、言葉そのものの解釈だけを取り出せば愛はすなわち自分が認める惹きつけられ(竹田青嗣先生的に言えばエロス)に対する信望とでもいいましょうか。しかしここでは、あくまでも質問文からの推測で、他人への愛それも、恋愛ということに絞っていいですかね。
私の考えとしては、一個人の恋愛観念や感情が性愛や恋愛を完全に説くことはできないというのが答えですが、それは以下、このような人間の関係性の本質がある限り、ということです。
人間は、自我を持つ生き物であり、他人と関係するとき接点となるのは自分が形作っているこの自我なのです。言い換えれば、個々の造りだした意識や欲望が他人と触れ合っているのであり、故に本能のなせる結果だけで世の中が動いているわけではないのです。人間の自我はその一個一個が異なり、また時間とともに変化するので、それらが関係することで世の中が出来ているということは、性愛ひとつをとっても複雑で多様な形をしていることはすぐに想像できるでしょう。
この世界で、人間が基本的に目指しているのは、自分の価値を高めようとする意識です。みんなに認められたいという欲望です。このためには、自我を多少ゆがめてでも世の中にあわせなければならない部分も出てきます。文字通り、我が儘なだけでは、必ずどこかが異なっている他人の自我の集まりである世の中とマッチしないからです。一方で人間は、素のままの自我、つまり自分だけが追い求める自我の世界(ロマン性)というものを誰でも持っており、自分の価値基準が、よいもの、美しいもの、好ましいものなどの序列を造るのです。この2つは、たいていの場合、こちらを立てればあちらが立たずという関係にあり、しばしば人を悩みに陥れます。
この見方でいえば恋愛は、よく「盲目」と言われますが、自分の価値が他人に認められるのと同時に、自分の持つロマン性をも満たすような特殊な経験です。それが故に失恋というのは、その両方の損失になるので、過酷なのです。


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